apapaの日記

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うちのじいさん

うちのじいさん、というのは夫の父親のことである。

同居している。

今は隠居生活で、少し認知症が入っている。

しかし、気概はあり、元気である。

 

元気なのには、原因がある。

医者に行きたがらないが、メンタルクリニック認知症の薬をもらっているほかに、不安症の薬ももらっている。

それを、この前3倍に増やしてもらったら、元気になったのである。

 

しかし、元気になったらなったで、減らず口は聞くし、やってもらいたくないことに手を出して、能力がついて行かないので逆に面倒をかける。

今日も、洗面所につまようじを落としたとか言って、洗面台の下のパイプを取り外し、そこになにかまた落っことしたと言って大騒ぎになった。

水が流れなくなったら、大ごとである。

 

結局、試しに流してみたら、落っことしたものが流れて行ったので、事なきを得たが

 

本当に、面倒ばかりかけるのだ。

 

正直、私はこのじいさんがやることなすこと、すべてが嫌いである。

全部、理にかなっていれば納得もするが、自分なりに理由をつけていることがまったく納得がいかない。

 

息子は、このじいさんが大嫌いだった。

私も、嫌いである。

 

しかし、このじいさんばあさんをまず祝福してあげるのが私の課題なのだ。

絶対無理。

 

心情的に。

 

まず、やりたいと思うことが始まりである。

でも、やりたくないのだ。

できれば、祝福なんてしてあげたくない。

 

この気持ちをどう転換するか。

私の一番の課題。

 

この前、少しだけ祈った。

そしたら、「愛してあげることだよ」と良心の声。

 

ああ、無理。

 

誰か、この心情をわかって。

夫の涙

今日は連休の中日だったので、いつもの休日のように車いすで外に散歩に連れ出した。

今日は近くの団地のほうまで行ってみたが、いつも人通りが少ない。

子供たちがボール遊びなどをする公園などを見ながら、帰り道、

夫が言った。

「自分の足で歩きたいなあ」

 

夫の足はもう回復はすることはないと思っている。

動くことはある程度できるが、体重を乗せて二本の足で歩くことはまず無理だ。

少しイラついたようにそんな言葉を出した。

私は、何も言うことができない。

 

帰り道、夫の好きなギタリストがたまたまいた。

この辺に住んでいるのかもしれない。

それで、夫は少し気持ちが明るくなったようだった。

 

帰ってきて、テレビをつけたら、パラリンピックの選手の番組がやっていて、それを耳で聞いていたら、見たいという。

眼鏡をかけた瞬間にもう終わってしまったが、夫はこうなる前はいつもパラリンピックなんてやるんじゃねえ、と言っていた。

障碍者は、スポーツなんてやる資格ないというのだ。

私は、その考えは同意できなかった。

 

でも、夫は今、そんなことはないと思い始めているだろう。

今日はひたすら、自分の不自由さが身に染みてつらかったようで、涙を流し始めた。

 

確かに、夫の身になってみれば、つらいだろうと思う。

でも、きっと、障碍者がスポーツなんかやる資格ない、なんて言ってた考えは、傲慢だったし、それを考え直すことは、生きてるうちに必要なことだったろう。

 

大丈夫だよ、霊界に行ったら、あなたは健常な体を持ってることに気づく。

そして、先祖によく頑張ったとほめてもらえるだろう。

心の中でそう言っている私なのだ。

 

良心に聞く

最近、夫がやたらとおむつのことに口を出して、わかってもいないくせにちゃんとできてないとか文句をつけるので、そのたびに頭にきて怒鳴ってしまうこともある。

 

昨日もしつこく注文を付け、もう言うなと怒鳴って、わかったと言いつつ、まだ言い続けるので、腹が立ち2階へ避難した。

 

しばらく冬用布団をかけて眠ったが、階下で呼ぶ声がする。

かなりしつこく呼んでいる。

どうやら、行かなければいけない。

 

どうしよう?

さっきの腹立ちがまだ記憶に新しい。

こんな時こそ、良心に尋ねようと思って聞いてみた。

 

なぜ、あんなふうに夫がなってしまうのか?

そこですぐに返ってきた返事があった。

 

「最近、話したりないんじゃない?」

 

夫の身になってみれば、病院では様々な人が入れ代わり立ち代わり夫に話しかけていたが、今は家にいて、昼はお母さんと訪問のヘルパーさんや看護師さんだが、それほど話しできる環境ではない。

 

お母さんも年なので、夫の声が聞き取れなかったりするし、自分の体も万全ではないので、つい夫が眠っているとそのまま寝かせてしまう。

 

夜はみんな寝るので、夜起きている夫は誰とも会話せずに眠れないままいるのだ。

 

息子が家にいた時は息子とよく話していた。

要するに、話すことで正常を保ってきたのである。

孤独なのだ。

 

そう思ったら、自然に忘れて階下に降りていけた。

夫も少し反省もしたようだ。

 

神様に祝福を受けた私たち夫婦である。

夫は私の相対で、決して変わることはない。

だから、私に一番必要で、合った人なのだ。

 

そこは最初から変わらない。

一体化する努力をすることで私の成長ともなる。

 

良心に尋ねる。

それが重要なことだと思えた。

 

頑張ろうと思う。

 

今日は台風だけど

今、外では台風15号がまさに直撃し、嵐が吹き荒れている。

日本ではそうだが、お母様はサントメプリンシペで国家的祝福行事の大勝利をおさめられた。

サントメプリンシペ?

最初聞いた時は、国の名前ではなく、都市の名前かと思った。

調べてみると、香川県くらいのちいさなアフリカの島国である。

 

島国!

まさに、日本の象徴的な国。

 

日韓関係が悪化する裏に、北の思惑通りにもっていこうとする意志があることを、この前知った。

まず思ったのは、韓国国民のことである。

韓国国民たちは、そんな風に本当に思っているのか?

そう思ったとき、まず、全員がそうなわけがない。

日韓関係が悪くなって、得する人たちは限られていて、まず、心情的にもう、そこまでの感情の人たちはそういない。

本当は、誰も日韓関係なんて悪くなっていいと思っていないのだ。

 

韓半島は統一が願われているが、それはあくまでも平和的統一で、北の思惑通りに統一されることが、いいわけがない。

 

早く、みんなそのことに気づくべきだと今、思っている。

日韓関係は台風の真っただ中だ。

孝情

単に父母を喜ばせたい、というその純粋な心情

そのために、何かをしたいという、素直な心

 

それが、父母の願われる子供の姿

 

子供が、幼い手で親のために描いてくれた似顔絵を受け取る時の親の喜びは、ほかに比べるものがない。

神様が願われるのは、その汚れない心なのだ。

 

飼っているペットが飼い主に何を思っているか、動物と話ができる人が出る番組を時々見るが、いつもその汚れのない思いを聞いて、涙が出るのは、なぜか。

 

大人の人間にはいろいろな複雑な思いがある。

様々なことが、自分にとって損か得か、を瞬時に考えてしまうのが思考回路として出来上がってしまっている。

しかし、幼い子供や動物には、その回路がない。

ストレートに、その喜ばせたい心情が投げかけられてくる。

そして、それは投げかけられた者に対して、ただ美しいものを残すのである。

 

ああ、余計なことをどれだけ身に着けてしまっていることか。

すべてを下ろして、自分の素直な心で、周りの人を喜ばせてあげられたらどんなに満足か?

なぜ、そんな単純なことができないのか?

 

本当に、それがつまらなく、もどかしい。

 

 

清平摂理

今日、なかなか清平に行けない人たちが役事を受けられるというので、本部教会に行き、役事を受けてきた。

 

そこで、清平という地の摂理について説明があった。

 

大母様のおられたころとは全く今は違うが、今は完成期になったということ、

清平という地は先祖解怨のためだけでなく霊界の整理のために作られて、役事を受けてから先祖解怨しないと、先祖は逆に恨霊の恨みによって働けないということ、

あくまでもサタンは悪霊たちを使って相対基準をなす人間に働くこと

だから、相対基準を持つ悪霊を減らすことによってサタンの力が弱まること

 

清平のことを知れば知るほど、御父母様への感謝が深くなる。

 

一所懸命役事は受けてきた。

頑張っていこう。

信仰というもの

私はいったい何のために信仰しているのだろうか?

正直言ってわからない。

信じたいわけではない。

頼りたいわけでもない。

なのに、なぜ信仰の道に来たのだろうか?

 

考えてみると、私の意志ではない。

そんなつもりはなかった。

やめたいと思ったことは何度もあった。

でも、やめられなかった。

お休みしても続ける道を選んだ。

 

なぜ、今もこうしてここにいるのか?

それは、私の意志ではない。

これは神様の意志であり、先祖の意志だ。

でなければ、私のようなものがいるわけがない。

 

天は私を使ってやろうとしていることがある。

私は、あくまでも使われている身なのである。

 

では、使われている身ならば、どうやって天の願いにこたえるか?

私に与えられていることは昔から決まっている。

中心性を持つこと、これは初対面の中心の人に必ず言われることだ。

それと、自分なりに考えず素直になることである。

 

最近は仕事も忙しく、夫の介護もあって、肩はバリバリである。

時々、薄氷を踏むような思いにもなる。

しかし、体は元気である。

そこは守られているとしか言いようがない。

 

姉は私の環境を見て、ハラハラするという。

正直、ハラハラするだろう。

なぜ、今までなんとかやれて来たのか?

もし、神様を知らなければ、おそらく地獄のどん底にいただろう。

 

神様はいるのである。

私は、いないと言えない。

絶対に言えない。

いるものはいるのである。

いつも、どんな時でも、いないと言えないのだ。

私を守る神様がいることを私は知っているから。

神様の心情を感じるから。

どんなお方かをもう知ってしまったから。

 

私が信仰をし続けている理由は、結局この1点でしかない。

信仰するものは自分が弱いからだという人がいるが、違うのである。

知ってしまったものを、違うとはもう言えないだけなのだ。

 

様々なことに考えが及び、怖い思いもあるが、原点に戻らなければ忘れてしまうことがある。

神様は私を使ってやりたいことがある。

そのために素直になることだ。

 

どうして私なのですか?

何度となく聞いたが、いまだにわからない。

 

でも、神様はいるのです。